
司会・川上美砂/第二部のはじめは、狛江に縁の深い3人の表現者に登場していただきます。その3人をご紹介しましょう。
川柳作家であり詩人の
高鶴礼子さんは、全日本川柳協会常任幹事で、狛江で生まれた「川柳・狛の会」の指導もしていらっしゃいます。国際人権団体・アジア太平洋人権情報センターの機関誌に「表現すること」と題して原稿を寄せていらっしゃいます。
国際ジャーナリストの
伊藤千尋さんは、元朝日新聞の記者です。中南米・ヨーロッパ・アメリカなどの特派員を歴任され、「コスタリカ平和の会」の共同代表でもあります。著書は多数ですが、音楽や 映画にも造詣が深く、その方面の新聞や雑誌にも連載していらっしゃいます。狛江在住です。
そして、先ほど素晴らしいクラリネットの演奏を聞かせてくださった
木津陽介さん。この3人で「表現の自由と平和について」というテーマでお話しいただきます。
なお、コーディネータは、一番右側に座っていますが、こまえ平和フェスタで音楽と言えばこの方、
大熊 啓さんです。黒いおヒゲと黒いシャツ・ズボン。先ほど、黒いスニーカーから黒い革靴に履き替えてきました。
では、この3人とコーディネータで、シンポジウムを行いたいと思います。どうぞ耳を傾けてお聴きください。
大熊 啓/今回のコーディネータを務めます大熊です。先ほど司会からもご紹介いただきましたが、改めましてそれぞれのお口から、狛江との縁も含めて、ちょっと自己紹介していただければと思います。じゃあ、若手から、木津さんからお願いします。
木津陽介/この顔ぶれの中で、なぜか私が場違いではないかと思っているのですが。私は狛江に住んで30年以上になります。30年以上住んでいるのが、良いのか悪いのか分かりませんが、ここにいるきっかけにもなっています。よろしくお願いいたします。
伊藤千尋/僕は、来年で狛江に住んで30年ですね。
大熊/じゃあ、木津さんのほうが先輩ですね。(笑)
伊藤/今まで朝日新聞の記者を40年やってきて、2年前に退職したんですが、特派員に3回出て、その最初の特派員は中南米で、今ブラジルでオリンピックをやっていますが、そのブラジルでした。
ブラジルから帰ってくるときに、日本に家がなかったので、どこかないかと探したら、朝日新聞でアルバイトをしている女の子が、長州毛利家のお姫様だった。この人が東京に家が3軒ある。そのひとつが狛江にある。「じゃあ、1軒貸してね」と言って、そこに住んだんです。岩戸南でした。
住んだのはいいんだけど、お屋敷なのでお金がかかって仕方ない。これじゃもたない。でもいい街だなぁと思って、この狛江で生活し始めて、来年で30年です。(会場から拍手)
大熊/はい、ありがとうございます。では、今回の紅一点、高鶴さんお願いします。
高鶴礼子/みなさま、こんにちは。高鶴礼子(たかつる・れいこ)と申します。私は川柳を書いている者です。「ノエマ・ノエシス」という、ちょっと聞き慣れない名前の川柳誌を主宰させていただきながら、男女共同参画、人権、そして川柳の分野で講師の活動をさせていただいています。
狛江市さんとのご縁は、今から6年ぐらい前になりますか、2010年に中央公民館さんが、川柳の何回かの講座をご企画くださいまして、お招きにあずかりました。以来、毎月1回、講座終了後にできた「川柳 狛の会」のみなさんとともに川柳を考え、いろんな出会いを愉しむということで、お伺いさせていただいている次第です。(会場から拍手)
大熊/音楽家、ジャーナリスト、川柳作家と、いろんな肩書きをそれぞれお持ちですが、それぞれの分野との出会いと言いますか、どうしてこの道に入られたのかをちょっと訊きたいと思います。じゃあ、今度は逆順で、高鶴さんからお願いできますか。
高鶴/きっかけというと・・、あるんですよ、実は。
小さいころから本を読んだり、ものを書いたりするのが好きな子どもではありました。大学を卒業しましたあと、私はテレビ番組制作のADをやっていまして、あと日本語教師などをやっていたのですが、ひとり目の子どもを妊娠したときに、流産しかかってしまったんです。入院と手術が続いて、仕事が続けられなくなってしまって。川柳と出会ったのは、そうやって仕事を辞めて、何年か経ったときのことでした。

うちの近所に小さな古本屋さんがあって、ある日そこへ行ったんです。そこである本を手にとってぱらぱらっとめくったところに、それはありました。
時実新子 (ときざね・しんこ) という人が書いた「五・七・五」、たった17音字のことばです。
時実新子/1929年(昭和4年)~2007年(平成19年):彼女の川柳は、女性の情念を率直に、かつ、激しく表現したものが多い。その作風から川柳界の与謝野晶子と呼ばれた。(出典:Wikipedia)
この瞬間がなかったら、たぶん私は一生、川柳とは無縁の生活を送っていたことだろうと思います。
当時の私は、川柳について何も知りませんでした。川柳といえば、ときどき新聞の片隅なんかに載っていて、なんか人をツンツクするみたいにして、時の為政者であるとか、世相を批判したり揶揄したり、それから「あはは」って笑えるけど、笑ってそれだけのような、とても人が一生賭けて向き合う対象であるなんて認識はなかったんです。
ましてや、時実新子なんていう名前も知りませんでした。ちなみに、初めて名前を聞かれる方もいらっしゃるかも知れませんから申し上げますと、新子は、「川柳界の与謝野晶子」と例えられるような存在です。
とにかく何も知らなかったですが、その句は、私に、こんなふうに語りかけてくれていました。「ご覧なさい。これが川柳というものなのですよ。」 そうか、これが川柳なのか。そうであるならば、「私は川柳がやりたい。」そんな強い思いが込み上げてまいりました。
本を買って、うちに帰って出版社に電話して、時実新子なる方の連絡先を訊きました。神戸にお住まいでした。それで、一生懸命手紙を書いたんです。もう自分でも笑えてくるほど、なんでこんなに一生懸命手紙を書いてるんだろうと思えるほど。思いのありったけを込めました。お返事は、ほどなくして届きました。
「見てさしあげます。毎月15句を私のところに書いていらしてください。」で、ヤッターと思って、鉛筆をぐっと握りしめた。それが始まりです。(会場から拍手)
大熊/なるほど。ちなみに、「これが川柳なのですよ」と訴えかけたその句は、どのようなものでしたか。
高鶴/いやあ、でも、言っても、「なんでこの句のどこにそんなに反応したの」といつも言われるので、あえて言わなかったんです。(笑)
聴いてください。このような句です。
「いちめんの椿の中に椿落つ」
大熊/「いちめんの椿の中に椿落つ」このことばに、もうぐぐっと、きてしまった。
高鶴/これに出会っていなければ、きょうお招きにあずかってここに座っているということは、ありませんでした。(笑)
大熊/なるほど。はい、ありがとうございました。
そうしましたら、続いては伊藤さん、お願いいたします。
伊藤/僕は、小学校2年のときには探検家になろうと思ったんです。イースタン島のモアイ像ってあるじゃないですか。これ、絶対行ってみたいと思いました。

それから、高校になって生徒会長になったんです。これがまたおもしろい。高校のときには、弁論部というのをやりましてね。ここで、政治というもののおもしろさを知ったんです。
僕は、出身が山口県なもんですから、しかも高校を卒業するときには、ちょうど明治維新100年ですよ。で、山口県から東京を目指そうというような男は、やっぱり総理大臣を目指すんですね。(会場から笑い) 本当に総理大臣になろうと思ってました。
ところが、大学に入って2か月目に、機動隊が大学に入りまして、僕たちは大学闘争というのが始まって、大学の先生がおろおろしたのを見て、ここで権威というものが、崩壊しちゃったんです。
同時に、日本の政治って、年功序列じゃないですか。たらい回しがどうのとか。こいつら本当に、ちゃんとした頭を持ってるのかという疑問も出てきて、本当の政治家じゃない(と思った)。当時、ベトナム反戦闘争とかあったじゃないですか。(木津さんに向かって)あったって知らない?
木津/知らないなぁ。(会場から笑い)
伊藤/そのときに、ジャーナリストが活動してたんですね。田英夫(でん・ひでお)さんがテレビでやってました。本多勝一(ほんだ・かついち)が新聞でやってました。ベトナムの現場へ行って真実を報道する。それが、政府が言ってるものと全然違う。そこで初めて事実というものが知られて、そこから市民の運動が起きる。というのをまざまざと見て、これが本当の政治だと思ったんですね。政治家がなんかいいことを言って、みなさんの気を引こうというのではなくて、市民が運動を起こして、市民の力でもっていい社会を創り上げる。それが本当の政治だと思って、だったら、それをリードしていく、そこに最初の情報を知らせるというのがジャーナリストですから。ジャーナリストこそ、本当の政治家だと。だったら、僕はこれを目指そうと思ったんです。
大学2年のときにキューバに行ったんです。別に、キューバの社会主義がどうのこうのというのではなく、違う社会を見ようと思ったんですよ。
そこで半年間キューバに行って、キューバ人と一緒にサトウキビを買って。帰ってきて、キューバというのがこういうところだというのを大学新聞に連載したんです。これが元で、知らせるということの醍醐味というのを知った。そこがきっかけです。
大熊/なるほど、すごい人生を送っていらっしゃいますね。(会場から拍手)
探検家になりたくて、政治家になりたくて、でも、ある意味、今、全部やってますよね。
伊藤/違うところに行って、そこで何が起きているかを知るというのは、ほとんど探検家みたいなものです。
大熊/なるほど。同じように山口県から総理大臣になった人がいますけれど、かたや総理大臣、かたやジャーナリストという感じでございます。まあ、誰とは言いませんけど。(笑)
それでは、続いては総理大臣という話を聞いて、次が言いにくいかも知れませんが、木津さん、お願いします。
木津/実は、このパネルディスカッションを迎えるにあたって、私たち実は一度顔合わせをしております。その中で、このような話を当日しますよということで、打ち合わせをさせていただいたのですが、伊藤千尋さんが「総理大臣になりたい」というお話を聞いて、私も実は国会議員になりたかったんです。本当に思っていたことなんです。

というのはですね、私は小さいころから歴史が大好きで、日本史・世界史、とくに日本の戦国時代が大好きなんですけども、そういった歴史を勉強するにつけ、テレビから流れてくる国会議員の歴史観のなさ、センスのない発言。そういったものに対して、憤りを覚えておりまして、間違った感覚を、僕が議員になって正してやろうと。非常に志が高くて、進学校の高校に進学しました。
ずっと勉強しながら、歴史が好きで、もちろん音楽も同じぐらい好きなんですけども、大学は京都大学の史学科に行きたいと思っていて勉強していました。ちょうど奈良に親戚もいましたので、奈良と京都で通えばなかなかいいんじゃないかと思って、勉強していたのですが、高校生に入りますと文系か理系かと進路をざっくり決めなくてはいけない。その進路をざっくり決めるときに、私が音楽家・クラリネット奏者として初めて出会ったプレーヤー(演奏家)なんですけども、ちょうど日本にベルリンフィルが演奏に来まして、今はもう退団されていますが、首席クラリネット奏者の、
カール・ライスターさん というドイツの有名なプレーヤーがおりまして、その方が、モーツァルトのクラリネット協奏曲を演奏して、その場にちょうどチケットを買って客席で聴く機会があったんです。
Karl Leister (1937~): ドイツのクラリネット奏者。世界を代表するクラリネット奏者の一人。22歳でベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の首席奏者に就任、1993年まで務めた。(出典;Wikipedia)
その演奏を聴いたあとなんですけど、ホワイエで、なんとそのソロを吹き終わったカール・ ライスターさんが、ソファにどかっと座って寛(くつろ)いでいらっしゃるんです。寛いでいるところに、英語もままならず、ましてやドイツ語なんか使えないので、日本語ででも「本当に演奏、素晴らしかったです。ありがとうございます。」ということを伝えたら、向こうもたぶん何を言っているか分からないけど、恐らく真意は伝わったに違いなく、握手をしてくださったんです。そのとき、私も手は比較的大きいほうだったんですが、さらにそれの一回りぐらい大きくて分厚い、でも、体も大きいんですが、すごく繊細な音を出す。ということで、クラリネットの魅力にはまってしまい、そこから幸か不幸か音楽大学に入学しまして、さまざまな勉強をして演奏家として活動しているというところに至りました。(会場から拍手)