布川/ はい、ありがとうございます。次は、証言を始められたきっかけと、証言を続けてこられて、どんなことを感じたり、考えたりなさったかということを、お聞かせいただけたらと思います。お願いします。
小学校で、被爆したときのことやその後の生活のこと、核兵器の問題について話す
木村/ まあ、証言というような、そんな大それたつもりはもともとなかったし、ほんと言えば、こうやってみなさんの前で、自分のプライバシーだけならいいんですけど、うちの家族を含めて、周りの者に関わりがある話というのは、したくないです。正直言うと。でも、やっぱり知ってもらいたいという気持ちがありますので、話させていただいていますが。
始めたのは、東京に来てからですけれど、子どもが通ってる学校で、戦争体験、戦争の証言の本を作るというときに「戦火の中の青春」というところで、私が長崎出身だということを先生方もご存知だったのでしょう。書いてほしいと言われたのと、子どもの学校で、長崎の話をしてほしいというようなことがありまして、まあどちらかというと、少々いやいやながらっていうか、そういうので始めたんですけれど、やっぱり、知らないことを、私たちがいろんな運動をしていく中で、原爆のことも分からないままというのも、みなさんに理解していただけないんだなぁというようなのがありましたので、やはり、徐々にと言いますか、回数が多くなりまして、証言をするようになりました。
2校ありますから、その2校はもう20年ぐらいにもなります。20年近く、毎年同じ時期に、6年生のお子さんたちに、長崎の話をしています。そのお子さんたちは、みな平和学習したりしていますので、非常によく分かってくれます。そして、レポートを書いて、寄こしてくれます。
2015年4月国連で開かれたNPT再検討会議にむけた要請団のデモ行進(米国・ニューヨーク)
私を、先生が、「被爆された木村さんでーす。」とか言って紹介してくださったとき、その中のひとりが、私の顔を見て、「なーんだ、普通のおばさんじゃん。」って言ったんです。そうなんです。で、そのときに私は言いました。「そうなんです。被爆者は、特別な人ではありません。普通の人なんです。」
普通の子どもだったし、大人だったし、そして、おじさん、おばさん、おじいさん、おばあさんだったんです。たまたま、6日に広島、9日に長崎に住んでいたとき、理不尽にも予告もなしに原爆が落ちてきて、落とされて、そしてそこで被爆をした。そしてそのときから、要するに「被爆者」というような、ある種「言われかた」と言いますか、そういう名前が付いたんで、ほんとうは、私も、布川さんも、みなさまも、そういう境遇・場面に遭えば、そうなっちゃうんですよね。
普通の人が、普通に生活してるのに、あるときある瞬間から、被爆者にならざるを得ないという、まあとても嫌なことを一生背負って行くという。原爆は、一瞬・一日だけですが、被爆は一生続くという。そういう背中にとか、お腹にと
2015年4月国連で開かれたNPT再検討会議が開かれている国連本部のメインロビーの原爆展でも証言
か、重いものを抱えてるという、それらのいやらしさというか、不幸というのが、東京大空襲、それからここ(狛江)での空襲もあって、みなさん空襲を受けた人たちは、みんな同じ被害者ですけれども、原爆とか、核兵器が違うのは、火の玉、熱線と爆風と、そして放射能とか放射線なんです。この放射線がいつまで続くのか、ついきのうも質問されたんですけれども、分かりません。あるかないかも分かりません。けれども、統計的に言って、癌を患ってる人の確率は、断トツに被爆者が多いんです。
甲状腺の障害もそうです。そういったことがありますので、私は、特別な爆弾というふうに思っていただきたいし、核兵器が、どんなに「嫌な」恐ろしい爆弾か。まあ、条約が決まりました。それは良かったことですけれども、そのように思います。だから、普通の爆弾という言い方は変ですけど、同じ被害なんです。けれども、プラスアルファのそのアルファがいかに大きいか。いかに恐ろしいか。そういうことを知っていただきたいなぁと思っています。