木村徳子/ 今から72年前、1945年の8月9日。当時私は、長崎市新地町(しんちまち)といいまして、長崎市内の繁華街の真ん中に住んでおりました。きょうここで、みなさまにお目にかかれるというのは、本来はあり得なかったんですけれども、どうしてここに来ることができたのかということを含めて、その8月9日当日のことを、思い出すままにお話しいたします。
この地図、ちょっと見にくいかとも思いますが、真ん中の赤いところの丸印、これが長崎市松山町(まつやままち)なんですけれども、そこが結果として、爆心地になったところです。そして、私の家(うち)は、青い矢印のある、長崎駅から500メートルぐらい南のほう。この地図は、長崎の北と南、縦長に山間(やまあい)に沿って、広島と違って平野じゃなかったんで、でこぼこしておりますけれども、そういう街で、私が住んでいたのは、爆心地から3.5キロとか3.6キロとか言われている新地町です。
被爆当時の長崎市の地図
本来、第2発目の原子爆弾というのは、九州・小倉に落とされる予定だったんですが、小倉の上空が、そのときに雲がかかっていて、下界が全然見えなくて、それで何回か旋回したけれども、結局町並みを見ることができなかったので、第2目標の長崎に飛んで来たわけですね。それで、長崎の上空に着いたら、その長崎もちょっと雲があったんです。で、2・3回旋回しているうちに、ぽっかりと穴ぼこのように雲の切れ間が見えた。そして、下を目視すると、下には家並みが見えた。そこが長崎のどこなのか分からないけれども、もう慌ててボタンを押した。それが原子爆弾なんですが。
それで、本来なら私の家の近くは、本当の意味で長崎市内の中心街になるんです。長崎駅があり、県庁、市役所があり、そういうところだったし、港の対岸には、軍艦を造っていた三菱造船がありましたので、そこらあたりが本当は、目標だったようなんですけれども、やみくもに落としたと。その結果、北のほうに約3キロぐらいずれて爆心地ができた。そのために、私は生き残りました。けれども、浦上地域に住んでいる人たちは、何万人もの人が亡くなりました。ですから、私は運が良かったとか、ラッキーだったとか思ったことは一度もありません。それは、亡くなった方の数もそうですが、どこに落ちても、決して運が良くも悪くもなかったんですね。そういう事実があったということが、非常に腹立たしいといえばそうなんですが、そういうことでした。
長崎原爆のキノコ雲
8月9日は、6日に広島に原爆が落とされたということは、もちろん知りませんでした。というのは、新型爆弾が広島に落とされたらしいということは、ちらちらと大人たちの言葉の中からは、分かったんですが、それが原爆だということ、長崎に落ちたあとも、戦争が終わってから、ずいぶん経ってから、原子爆弾という言葉も知りました。
そういった状況だったので、8月9日も「ふつう」の日でした。いつもと変わらない。けれども、朝早く空襲警報が鳴りまして、着の身着のままで寝っ転がっている夏ですから、そのまま起きて防空壕に行きました。そして、防空壕に着いたけれども、結局その後何もなくて、2、3時間経ったと思います。で、また家に帰って来てたんです。
2階の座敷で、夏休みでした。国民学校4年生で、年齢は10歳だったんです。2階の座敷で、紙人形で弟と妹と一緒に遊んでいました。で、そのときにグゥーンというような爆音が聞こえました。で、あっと思って、何か分かりませんでしたけど、立ち上がって、ひょいと2階の高窓を見ましたら、その窓ガラスの外に、だいだい色の火の玉、そしてそのだいだい色の周りに白い煙のような輪っかがあって、そういう火の玉が見えたんです。それで、何も分かんないけど、何か急いでって言いますか、瞬間的に2階の12段ある階段を飛び降りるようにして降りました。その途端に、ゴォーッという大きな音と一緒に、隣との境に赤レンガの壁がありまして、そのレンガ壁が私の背中にドォーンと落ちてきたんです。そのときに私は、あっ、お隣に爆弾が落ちたのだと思いました。そして、うちは昔、建材店をやってたものですから、すぐ足元に資材置き場の地下室があって、そこが私設の防空壕にも使われていましたので、そこに落ちるように行きました。で、母が泣いてる妹を抱えて、弟もその防空壕に飛び込んで来ました。防空壕は真っ暗で、でもゴォーッというような遠くで地鳴りのような音がして、しゃがんでいる私の足元は、グラグラグラグラと地震のように揺れていました。でも、目の前は何ひとつ音もしない、そのような真っ黒な世界でした。
しばらくしてから、通りを警防団のおじさんたちが、メガホンを持って、「今のうちに逃げろっ」というふうに言ってきたので、確かに隣に落ちたかも知れないという思いもあったので、それから外に出て、本来の防空壕に逃げました。
外に出たときに、確か「まだお昼だよね」っていうような気がしたんですけれども、まるで薄暗くて、夕方のような気がしました。で、走って行って、また朝行った防空壕に入りました。
広島市原爆資料館に展示されていた被爆直後の被災者のロウ人形
それから随分時間が経って、9日の午後というか、2時、3時ぐらいだったと思うのですが、ほんとに長崎の夏は、クソ暑いっていうような、そんな暑いところなんですが、子どもである私や弟なんかは、もう防空壕は満員ですし、それから出たり入ったりしてたんですね。で、ひょっと北のほうの、長崎駅の方向を見たときに、なんかこう「灰色のかたまり」のようなものが、近づいてくるのが見えたんです。でも、それは一体何なのか分かりませんでした、初めは。でも、近づいて来るのをじぃっとよく見たら、(スクリーンを指しながら)これは広島の前の平和資料館の入口にあった蝋人形で、被爆した人たちの、ほんとに悲惨な様子なんですけれども、そういうのが近づいて来るのが見えました。顔が真っ赤っかに腫れ上がって、髪の毛がぼうぼうに立ち上がってて、そして灰色の粉がふいたような。そして、出ている皮膚と着ているシャツとが一緒くたになって、どろどろになって垂れ下がっている。そういう人たちが近づいて来たのが分かりました。そして、防空壕のすぐ近くに来たら、「水をください。水をください。」と言うので、私たちが持っている小さな水筒で、水を飲ませました。そういう人たちは、飲んだらそのままバタバタと、そこで倒れて逝かれました。
あまり時間がないので、もうちょっとあるんですが、長崎の街は夜になって暗くなったんですけど、真っ赤に北のほうが赤くなっておりまして、夜中には光っておりました。そして朝になったら、空色、水色の空がピンクに光って見えた。8月9日の一日だけの記憶で言いますと、このようなことなんです。