被爆の思いと高校生平和大使
被爆の思いと高校生平和大使
布川
/ はい、ありがとうございます。続いて、大人になってからの質問に移らせていただいてもよろしいですか。
木村
/ はい。学校を卒業しまして、放送局で仕事をしていましたから、被爆した人たちに会うことは、たくさんありました。けれども、私は一度も、自分も被爆者であるということは、言いませんでした。報道する側が言うというのは、ある種の色付きで見られるということもあるので、話したことはありません。大人になって、結婚したんですけど、結婚相手がこちらの東京の人で、その「木村」の親戚は全員関東の人なんですが、そのときに義理の母が、「徳子さんが長崎出身である。原爆、なんか関係あるなんていうことは、一切うちの親戚は知らない。だから、口にしないでくれ。恥ずかしいから。」って言われたんです。
なぜ恥ずかしのか。なぜそう言われなければならないのか。私はいろいろ考えましたけれども、確かに、私は言うつもりもありませんでした。そして、やがて子どもができたときに、その子どもをほんとに産んでいいのか悪いのか、もうとっても悩みました。
それは、まったく違う時代に、何の関係もなく生まれてくる子どもが、親が被爆したからといって、もし何らかの支障があったときに、そういう事例はいくつもあったんです。そういうときに、子どもに対して、私はどんな責任が取れるだろうかという思いがありました。何も悪いことしてない子が、そういうふうになるときに、私は、代わってやることもできないわけですから。でも、周りの人たちの支えがあって、子どもが生まれまして、二人できまして、健康に過ごすことができました。ありがたかったです。
ただ、ずっと話をすることはなかったんですけど、あるとき、子どもがもう小学生になってたと思いますが、「もしかして、私、被爆二世?」って訊いたんです。私は故郷が長崎ですから、しょっちゅう、毎年のように長崎に連れ帰っていましたので、全体的なことでは分かっていたのかも知れませんけど、私が話したことはなかったんです。隠すつもりも、全然ありませんでした。けれども、それを言われたときに、私はほんとに冷や水を浴びせられたように、大変、子どもの前でうろたえました。
なんて応えたら傷つかないでくれるかなぁという、気があったからです。それでもやっぱり、「そうよ」と、私はひとこと言いました。子どもは、うなずいただけです。それ以後も、私は、子どもに面と向かって話したことはありません。でも、子どもは全部知っています。だと思います。それは知っていても、知っていなくても、事実は事実ですから。
ただ、やっぱり被爆者であるというようなことを、常に常に意識しなければならないということ。今や「ヒバクシャ」という言葉は、世界用語になったそうですけれども、被爆した者にとっては、その言葉は、決して楽しい言葉ではありません。
原爆被爆者が描いた絵から
晴れ着を着て荼毘(だび)にふされる少女たち
それは、今私はちょっと体調が悪いですけど、体調が悪かったり、風邪ひきだ、虫垂炎だというような、ちゃんと決まった病気のときは思いませんけど、なんか訳の分からない熱が続いたり、ずっとケガしても治らなかったんです。そういうようなことが続くと、「あのせいかな」というふうに、この歳になっても、今でも、やっぱり思います。被爆してなければ、決して思うことではないことなんです。
そういう思いが、私の原爆は見えませんから、あるのかないのか分かりませんけど、子どもが癌(がん)になりまして、その翌年私がなりまして、どちらも助かっておりますが、子どもがなったときに、私はもう自分だったら良かったのにって、どれだけ思ったことかと思います。
私、自分のとき(自分が癌になったとき)には、「ああそうか」っていう、そういう気がしていました。そういったことがあるので、ずっと被爆を抱えて行かなければならないっていうのが、かわいそうではないですけれども、被爆者は。でも、不幸です。そういうことを思っています。
亡くなった弟の火葬の順番を待つ少年
この男の子の写真は、焼き場の写真です。ロビー(会場のエコルマホールのホワイエ)のほうにもあったと思いますけれども、原爆が落ちてから、その翌日から、たっくさんの亡くなった方が、どんどんどんどん運ばれてきました。焼けてない家(うち)の近所とか、公園とか、学校の校庭とか、そういったところに運ばれて来まして、柱などの廃材を井桁に組んで、その上に戸板に乗せた遺体を並べて、油をかけてだと思いますが、私のすぐ家の前でもそうでしたので、それらをずっと毎日見ていました。とても悲しかったです。そして、長崎の街の空気は、戦争が終わってからも、9月になってからも。
この写真は、9月に長崎に入ってきたアメリカ軍の
ジョー・オダネル
という人が、撮った10歳ぐらいの男の子の写真なんです。うしろにおんぶしている子は、弟だと思われるんですが、その子は死んでいて、その子を焼き場に連れてきたということが書いてあります。本当は、文があって、とてもいい文なんですけれども、それはちょっと割愛いたしますが、そのようなことが、毎日毎日ずっと長崎では続いていたということが、大変に嫌な毎日でしたね。
ジョー・オダネル(Joe O'Donnell、Joseph Roger O'Donnell、1922.05.07~2007.08.09)は、米国文化情報局に勤務した米国の記録映像作家、フォトジャーナリスト及び写真家。最も有名な作品として、1945年と1946年に長崎および広島における原爆投下直後の状況を、米海兵隊の写真家として撮影した一群の記録写真がある。【出典/
Wikipedia
】
注釈を閉じる
前のページ
次のページ
1
_
2
_
3
_
4
_
5
_
6