被爆の思いと高校生平和大使
被爆の思いと高校生平和大使
布川
/ ありがとうございます。なんか、うまく表現できないのですが、木村さんのお話を聞いていても、私はほかの証言も聞いたことがあるのですが、いっつも思うのが、聞くたびに、すっごく胸が苦しくなるというか、締め付けられるというか、そういう感覚に陥って、すごく原爆を恐ろしさっていうのを感じます。私はふたつ印象に残ったお話があって、その中でもやはり、灰色の集団のような被爆された方が集団になってやって来たというときのお話と、空のお話が、私はやっぱりすごく印象的だなぁと感じました。空といったら青か、夕焼けの赤か、空を雲が覆った灰色か暗いか、そのぐらいなんですけど、ピンクの空っていうのは、自然をも変えてしまう原爆っていうのを感じさせられましたし、しかも多くの犠牲者を出す原爆の恐ろしさっていうのを、すごく感じました。ありがとうございました。
では、続いての質問に行かせていただきます。被爆されて学生時代に辛いこと苦しいことがあったと思うのですが、想像できないくらいあったと思うのですが、そのときのことをお聞かせいただけますか。
木村
/ 戦後10年、1945年からの10年というのは、ほんとに戦争が終わったばっかりの10年間だったんです。ちょうど私が10歳でしたから、その10年間というのは、いわゆる十代の毎日で、小学校5・6年生、それから中学、高校、そして大学という、そういう時期だったんですけれども、その期間は、原爆の話は一切してはいけないという日本政府の方針もありましたし、進駐軍のお達しもありましたし、話すことはなかったんですが、被爆した人たちにとっては、ほんと~うに辛い10年間だったと思います。
私が中学のころに、とても仲の良かった友だちが学校を休んだんです。どうしたのかと思って、見舞いに行きましたら、ほんとに2・3日前まで元気に一緒に遊んでいたその子が、うちの中で薄い布団に寝っ転がってて、顔が土気色で、目とか鼻とか歯ぐきから血が出ていたりして、腕に水玉模様のような赤い斑点があったんです。私は徳子というんですけど、その子のお母さんが、「徳子ちゃん、もうこの子はダメばい。ピカにやられた
ごた
。」声を掛けようとしても、なかなかできないぐらい、とても悲惨な状態だったんです。で、確か3日後だったかな、亡くなりました。非常に悲しかったです。
「ごた」:長崎弁の「ごたる」の略で、「~ようだ」の意。
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私は、中学・高校のころには、九州全土から来る私立学校だったこともありまして、別に被爆者ばっかりがいるわけじゃないんですね。そういったところでは、私のように無傷で、これは2階の部屋の中にいた、外にいなかったということも大きな原因なんですけれども、黙っていれば被爆者だということが分からないというような感じもありました。やっぱり私は友だちを失いたくないし、本当は知られたくないという気持ちもありました。だから、自分から、私は長崎の被爆者だと言ったことは、一度もありません。
被爆直後の長崎市
その後、私が本来8月9日にも引っ越し作業をするはずだった
城山小学校
という、爆心地から1キロ未満の一番被害を受けた小学校の裏手のところに、父が心配してバラックを建ててくれた疎開のための家があったんですけれども、そこに、その日は母が「もう出足がくじかれたからやめよう」と言って、行かなかった。それで助かったという偶然もあります。それでも、3日後ぐらいに叔母と二人で、そこを訪ねることになったんですが、大変な道でした。焼け野原でグニャグニャの線路に沿って行ったんですけど。で、着きました。相当時間かかって。そこの家(うち)は焼けてはいなかったんですが、もうペシャンコで潰れてて、先に引っ越しされた方々がいて、その方々は、生きてらっしゃいました。けれども、その昭和20年、45年(1945年)の間に、先に引っ越された方全員が、知り合いなんですけど、亡くなりました。次々に亡くなっていく10年間。それ以後も、ずっと亡くなっていってるんですが、そのたびに、次に死ぬのは私の番じゃないかという、そういう思いがずうっとありました。
長崎市立城山(しろやま)小学校:原爆落下中心地よりわずか500mの所に位置し、1,400余名の児童と職員が尊い命を失うという大きな被害を受けた小学校。【出典/
長崎市公式観光サイト
】
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ですから、本来楽しかるべき十代が、そういう毎日だったなぁと、大人になって考えることがあります。
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