司会アナウンス/第二部の始めは、狛江市の元和泉にお住まいの伊藤幸恵(ゆきえ)さんの証言 「7歳の東京大空襲」 です。伊藤さんは 「この文章は昭和20年3月10日の東京大空襲を挟んで前後の出来事を、7歳だった私が見たり聞いたり感じたことを思い出しながら書きました」 とおっしゃっています。
7歳の東京大空襲
「よく助かったね」 「よく生きていたね」 私はこれまで何度、人から言われたかわからない。初めて言われたのは浅草の浅草寺の境内にある戦災の慰霊碑をお参りしていた女の人からだった。それまで考えたこともなかったので、すぐには理解ができなかったが、「私はあの大火の中から助かったのだ、生かされているのだ」と感じられ、それまで一度もそう思ったことがなかったことが不思議な気がしたのを覚えている。
私が生まれ育ったのは本所区石原町二丁目で今の墨田区である。家族は父、母、四人姉妹の6人で、私は次女だった。近所には傘屋・足袋屋・飴屋・指物師など多くの職人がいるところで、父も 「かもじ」 【写真参照】職人だった。また、
両国国技館も近く相撲部屋もあり、寿座という芝居小屋もあるような下町だった。今、震災慰霊堂と呼ばれている当時の被服廠や安田公園も、幼かった私たちにとっての遊び場だった。昭和19年に外手(そとで)国民学校に入学したが疎開する生徒が多くなり、クラス替えがあったりであまり勉強した覚えがない。教室の下に防空壕が作られたり、学校の周りの家が取り壊されたり、近くの公園では大人たちが防空訓練のバケツリレーをするのを見物していたりした。また、大通りにも防空壕が作られ、家の畳を上げて床下にも防空壕のようなものを作ったが、三軒長屋の床下なので、隣と顔を見合わせるような粗末なものだった。
昭和19年の暮ごろから毎日のように空襲があるようになり、その度に床下の防空壕に入った。誰が教えてくれたのかわからないが 「般若心経」 を唱えていれば空襲にあっても助かるというのでいつの間にか覚えてしまった。遠くに落ちたと思われる爆弾の振動は地面の下から突き上げるように伝わりとても恐ろしく、般若心経を一生懸命に唱えていた。正月くらいは静かに眠りたいと親たちは話していたが、それほどアメリカは甘くなかったと思う。
初めて近くに焼夷弾が落ちてきたのは昭和20年2月の中頃だった。子どもたちは近くの焼夷弾の落ちていないところに避難したが、大人たちは日頃の防火訓練のように隣組の協力で火を消し止めることができた。その後、家々の窓ガラスに油のようなものが付いているのをたくさん見かけるようになった。これは後で知ったのだが「ナパーム弾」というゼリー状の油脂ガソリンだったそうだ。「あれをパンにつけて食べたら旨そうだ」と話す人もいた。
昭和20年3月10日、押し入れで寝ているところを親に起こされた。真夜中のはずなのに家の中は明るく、服を着たまま寝るのが普通になっていたので、前から用意してあった防空頭巾とリュックサックを背負わされた。外を見ると近所のおばさんとお姉さんが 「一緒に逃げましょう」 と私を呼んでいた。私は学校の上履きだった運動靴をはいて家を飛び出していた。その頃の下町は近所の誰も家族同然だったので、特に家族と一緒に逃げることなど考えてもいなかったと思う。
二人に手を引かれて石原の大通りに出るとそこには大きな火の粉を浴びながら大勢の人が隅田川に向かって歩いていた。吹き飛ばされそうな突風に煽られながら、双葉国民学校のほうに曲がった。学校の校庭には大きなプールがあり、二人は私を連れてそこへ行こうとしたのだと思うが、門の前には大勢の人がいて押し入ろうとしていたので近づくことができず、被服廠の方に向かった。しかし中には入れず隣の安田公園の門の前に行った。そこで、頭の上をB29の大きな機体が低く飛びながら焼夷弾を落して行くのを見ていた。それから公園の外を回りその先にある両国駅に着き、大きな柱のそばで火の粉を浴びながら隅田川の対岸に建っている家が焼け落ちるのを見ていた。
どのくらいたったのかわからなかったが火の粉も飛んでこなくなり、周りにいた人たちも移動を始めた。私たちも駅の周りをまわって被服廠の敷地内に入った。そこには山と積まれていた薪がまだ燃えていて大勢の人が火にあたっていた。その人たちの様子が何かおかしいと思いよく見ると、着ているものが焼け焦げ、顔が黒く汚れているように見えた。そして石原の通りに出てみるといつも見なれていた町はなくなり、色々な形をした真っ黒な人形がたくさん転がっているのが目に入った。でも、少し歩いていくうちにそれが焼死体だということがわかった。煙に燻され異様に光る太陽の下に折り重なる焼死体の間を通って家の焼け跡に行くと、近所の人が何人か戻っていてその中に姉がいた。姉は小学校4年生で私と同じように近所に人と一緒に避難していた。
姉の話では、父が大火傷をして今治療に行っている、母と妹はまだ帰ってこないということだった。やがて父が戻って来たがその姿は顔と両手、腰に火傷をしていて悲惨な姿だった。当時は町内に男性が少なくなっていたし、空襲にあってもすぐに逃げることが禁止されていたため、近所の人たちが避難したのを見届けてから自分も避難したと言っていたが、その時には目の前まで火が迫って来ていたという。その中で命拾いできたのは、家族のことを思い必死に頑張ったからだと思う。九死に一生というのは本当にあるのだと思った。
学童疎開に行っていた6年生が卒業のため帰宅していて学校に避難させていたのだが、学校に行ってみたら焼死体で一杯だったと泣いていたお母さんがいた。仲よしだった友が家族に手を引かれて去って行くのを見送った。被災者は吾妻橋のそばのアサヒビール工場に行くように言われたらしく、人々が移動を始めていた。しかし父の状態では無理だったので安田公会堂に行った。その時 姉と私は、一緒に逃げてくれた近所の人と別れてしまい、その後二度と会うこともなく噂すら聞くこともなかった。
安田公会堂では大勢の負傷者が手当てを受けていたり、身うちの人を探すために大きな声で名前を呼ぶ人、死んでしまった子どもを抱いて呆然と立ち尽くす人などで一杯だった。どのくらいたったかわからないが、突然母が妹を背負って現れた。大きな声で私たちの名前を呼びながら探し回っているときに、公会堂の二階にいた私たちを見つけたようだった。母は逃げている途中で 「背中の赤ん坊が燃えているぞ」 と言って防火用水の水をかけてくれた人がいたと言っていた。母の着ていたちゃんちゃんこには大きな焼け焦げがあり、妹の着物にも小さな焼け焦げができて背中には火傷の痕が残った。もし水をかけてくれる人がいなかったら二人がどうなっていたかは想像したくもない。
その夜は安田高校の講堂に集められたが、電気の明かりはあるはずもなく、壇上に数本のローソクがあるだけの闇夜の中、大勢の人々がぎゅう詰めの状態の中で一夜を過ごした。
当時 私は7歳で、日にちや時間の記憶があやふやでよくわからないが、何日か後に叔母の家族が私たちを探しに来てくれた。父をリヤカーに乗せ四ツ木にある叔母の家に行った。途中、あんなに沢山あった焼死体がなくなり、道路には黒いシミのようなものが残っていた。叔母の家には私のすぐ下の3歳の妹が、一緒に疎開に連れて行ってもらうために預かってもらっていた。また、私の知らない人たちも大勢身を寄せていた。後年、その妹が東京大空襲の色々な話を知り、電話で 「どうして家族全員が助かったのか」 と聞いてきたことがある。私は 「あなたが家にいなかったから」 と答えた。母が生後5か月の赤ん坊を背負い三歳の女の子の手を引いて逃げていたら3人とも確実にいなくなっていただろう。
安田講堂にいたとき、大人たちが「東部軍管区情報では我が方の損害軽微なしと言ってるのだろうね」 と話していたのを覚えている誰々さんの家は全滅だったとか、学校では何百人も死んだとか、防空壕の中は死体で一杯だったとか、幼かった私の耳にまで入って来たような空襲がその後も日本の各地で続いていた。
父は指先が大切なかもじ職人だったのが、手に大火傷をしたため仕事ができるようになるまでに何年もかかり、苦労をしながら私たちを育ててくれた。その上、毎月一冊ずつ本を買ってくれた。講談社の幼年クラブ、少女クラブ、小説と年齢ごとに変わっていったが、私は今でも少女クラブに乗っていた蕗谷虹児(ふきや・こうじ)の口絵を持っている。美しいものが少ない時代にその絵は楽しい夢を見せてくれた。「ああ無情」 のコゼット、「アルプスの少女」 のハイジ、「たけくらべ」 の美登利・・その他みな可愛く美しい。それらは敗戦後の苦しい生活の中での両親の愛情の賜物として大切にしている。
近所の人が逃げたのを見届けてから逃げて大火傷をした父。防火用水の水をかけてもらった母と妹。両国で総武線の枕木が焼け落ちるのを避けながら助かった姉、疎開する人の家に預かってもらっていた妹。大勢の人が死んだ双葉国民学校の門の前まで行った私。2時間半の間に約10万人が死亡したと言われる東京大空襲。「よく助かったね」 「よく生きていたね」 本当に家族全員よく助かったと思う。防空頭巾を被っていたのにどこから入ったのか火の粉が服の中に入り、後日気が付いたら私は左の上半身に前から後ろまで火傷をしていた。その痕も、いつの間にかなくなっていた。